阿 弥 陀 仏
鎌倉時代の彫刻でこの地方に残っている作品は少ない。おそらく寄木造りが多かったため、多数の仏像が亡んでいったのであろう。
そのうちで優れた作品の随一は椿井松尾崎阿弥陀寺の阿弥陀如来坐像である。等身の漆箔、寄木造りで来迎印を結び彫眼である。定朝様を留めるが、鎌倉時代前期の制作と思われる。
寺の境内にある石碑によると、本寺は大永元年(1521)の創立で、もとの本尊は安阿弥(快慶)作の高麗寺阿弥陀像だったが、この本尊は天正7年(1579)の火災で焼失し、現在の本尊は、慶長二年(1597)本堂復興のとき、住職となった性月大徳が所持していた仏像であるという。
(嵯峨美大 中野玄三氏による)
○ 木造阿弥陀如来坐像(阿弥陀寺本尊)一躯
○ 鎌倉時代前期
○ 像高 83センチ、膝張 66センチ、肩幅 44センチ
○ 面長(髪際顎)15センチ、面幅 16センチ
○ 檜材材、寄木造り、膝前部を別材とし、頭体幹部は前後二材に矧ぐ。
○ 像底部は、板で蓋をし、絹布を貼り、漆をぬっている。内刳りあり。
○ 腕部や背中は当初の金箔をよく残すが、胸部には後世に金泥を塗った様子がある。
○ 螺髪に少々虫損あり。
○ 全体として、当初の姿を良く残す、優美な仏像である。
(山城郷土資料館 田中淳一郎氏)
観音菩薩像 江戸時代
観音菩薩は、観世音又は観自在ともいう。この菩薩は、渇いた人々の心に潤いをもたらし、
その身は三十三にも変化して、人々の願いを聞きとどける慈悲の権化である。
観無量寿経では、阿弥陀如来の脇侍として慈悲の心を示している。
当寺の観音菩薩は、両手の間に宝玉を持ち、右膝をつき腰を上げ今にも悩める衆生を救わ
んとする姿である。
観音 「施主 平右衛門 伊右衛門 市郎兵衛 平三郎 勘兵衛 伝秀代」 過去帳の
記録により、享保13(1728)年正月に開眼供養をしたことがわかる
両脇侍 各片膝を立て蓮台を捧げる。
(調査日 平成一四年四月三日 調査者 京都府立山城郷土資料館 田中 淳一郎氏)
勢至菩薩は、大勢至菩薩又は得大勢至菩薩ともいう。観音菩薩が慈悲をもって苦しみ悩む
衆生を救済するのに対し、勢至菩薩は、智慧の力で救ってくださる。
当寺の勢至菩薩は、合掌の姿をとり、観音菩薩と対照の姿をとり左膝をつき腰を上げてい
る。
勢至 「施主 文四郎 平次郎 喜助 中兵衛 又七 厳誉代」
記録により、享保13(1728)年正月に開眼供養をしたことがわかる
各片膝を立て合掌の姿とる。
地蔵菩薩
地蔵菩薩の「地」は大地、「蔵」はお母さんが赤ちゃんを体内で育てるという意味がある。地
蔵十輪経によると「よく善根を生ずることは大地の徳のごとし」とあるように大地の徳の擬人
化としての菩薩である。
地蔵がさまざまの現世利益をもたらすと共に冥土の救済者とされるのもかかる大地の徳の
擬人化によるものであろう。
地蔵は釈迦の没後弥勒の出世までの無佛の五濁悪世の救済をゆだねられており、六道を巡
り閻魔さまに姿を変えて、人々を救うといわれている。
一般に地蔵菩薩は、錫杖と宝珠を持って比丘の姿をしている事が多い。
当寺の地蔵菩薩は享保12年(1722年)厳誉上人代に寄進された。
地蔵菩薩の宝輪の所には、施主の名が入っている。
尚平成一三年には、地蔵菩薩の両足を修復されている。
施主
地蔵菩薩像 宝輪銘
「平四郎、平兵へ、助三郎、源次郎、又兵へ、源七、仁兵へ、半四郎、清兵へ 敬白」
「兵へ」は「兵衛」のことです。寄進された方々の、お名前だろうと思います。
江戸時代の字体。
善導大師 (613~681)
中国浄土教大成者。出家して諸所を遍歴し、一七~二四歳の間に道綽(中国浄土教の祖師)
をたずね、観無量寿経を授かった。そして、道綽につて修行にはげむ。その後長安の都に出、庶
民の教化に専念される。
著書は多く五部九巻に及ぶ。その中の観経疏が善導大師と法然上人を結ぶこととなる。法
然上人は、偏に善導大師一師によると言われている。
当寺の善導大師は、半金色の姿をされて蓮台に着座されている。